小説

芦沢央『カインは言わなかった』感想【哀しき業に迫る慟哭ミステリ】

『火のないところに煙は』で本屋大賞ノミネート、『許されようとは思いません』続々重版中!

芦沢央さん渾身の書き下ろし長編大作です。

前作『火のないところに煙は』は恐ろしさが癖になるような魅力を持った小説でした。今作はどんな内容なのでしょうか。

芹沢央『火のないところに煙は』【2019年本屋大賞ノミネート作品。戦慄の暗黒ミステリ!】2019年本屋大賞ノミネート作品! https://tokeichikura.com/2019honyataisyou 帯に...

帯を見ると、

「芸術に魅入られた人間と、なぶられ続けてきた魂の叫び。”沈黙”が守ってきたものの正体に切り込む、罪と罰の物語」

とあります。

読んでみると全く違う雰囲気で、しかも本当に「魂の叫び」という言葉がぴったり合う強い力を持った作品でした。

これからきっと話題になるでろう小説だと私は思います。

簡単なあらすじ・説明

「世界のホンダ」と崇められるカリスマ芸術監督率いるダンスカンパニー。その新作公演三日前に主役が消えてしまいます。

壮絶なしごきにも喰らいつき、すべてを舞台に捧げてきた男に一体何があったのでしょうか。

己の限界を突破したいと願う表現者たちのとめどなき渇望。その陰で踏みにじられてきた人間の声なき声……。

様々な思いが錯綜し、激情の行き着く先に待ち受けるものとは?

慟哭のノンストップ・ミステリーです。

ここからネタバレ注意!

カインは言わなかったの感想(ネタバレ)

誉田率いるHHカンパニー公演『カイン』

旧約聖書において、「人類最初の殺人者」として描かれる男、カイン。

HHカンパニーはクラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスを融合させるアプローチで意欲作を次々と発表してきた団体です。

そんなHHカンパニーの集大成ともいえる「カインとアベル」のエピソードを元にした舞台に向けて物語は始まります。

作品の究極を目指すには表現者はどうなるべきなのでしょうか。

全てを舞台に捧げてきた男達が登場します。それぞれ己の限界を突破したいと願い、誉田を崇め、求められるものに応えようとします。

誉田は役柄を表現させるために演者を精神的にも肉体的にも追い込んでいきます。

その一つ一つの様子を描いた場面が迫真で読んでいてこちらが緊張してしまうほどの厳しさを感じました。

狂気すら感じるようなレッスンは、例えば一般社会の集団(企業など)であればパワハラなどで問題視されるに間違いありません。

HHカンパニーでも過去に追い込まれていた形跡を残して亡くなった穂乃果と残された家族の想いも描かれています。

でもこの表現者の世界は特殊で、それでも優れた作品を作ることを求める異様な空気が流れています。

だから追い込まれる主役の演者を見ても、いつか自分も選ばれたいと思って見ています。

そして読者である私も読んでいて、そんな間違いにも見える雰囲気の末にできた作品でも、その発表の場で文字で読んでいるだけなのに身震いするような興奮を感じてしまいました。

もしその興奮が、異様な空気の中でしか作られないものなのだとしたら……と考えれば誉田を単純に非難するのではなく、認めてしまうような気持ちにもなってしまう。

誉田は誠が今まで他人に話せずにいた話を口にしようとするときく前に「それは、絶対に誰にも話すな」と制されます。

『いいか、おまえの華を作っているのは、その沈黙だ』

誉田は、誠を指差しながら言った。

『言えない言葉が内側に渦巻いているから、踊りが饒舌になるんだ』

 

あの瞬間が人生のピークだったのかもしれない、と誠は思う。

誉田に認められ、主役に抜擢され、これから始まるリハに胸を高鳴らせていた、あの瞬間。

善と悪を越えた世界で描かれていく物語の世界は異様なのに真剣そのもので惹きつけられてしまいます。

錯綜する登場人物の思い

立場の違う登場人物のそれぞれの思いが錯綜して物語は進んでいきます。

中心は『カイン』の舞台なのですが、舞台に関わる人、その周りの人のまるで方向の違うような思いが描かれることで、お互いの気持ちが深堀りされていくようでした。

藤谷誠、豪、尾上和馬は勿論ですが、誉田や穂乃果、望月澪など主体として描かれなかった人物の想いも読んでいく内に浮かび上がってくるように感じられました。

話の軸は一つなのに何冊もの物語を読んでいるような気持ちです。そしてどの人物の気持ちもけして軽くない。

共通して言えるのは舞台にしても画にしても芸術に魅入られた人間やそんな人間の周りにいる人間の魂の叫びのようなものが描かれていることです。

だから『カインは言わなかった』が誰の物語かと言われても私には答えられません。

それくらいそれぞれの想いが強く感じられた物語だったからです。

ただ救いが欲しいと願いながら読み進めていた人物もいて、それは松浦と松浦の妻のことです。

エピローグの最後は真実に近い部分を知った後、松浦の妻の表情が見えようとするところで終わりました。

 その視線の先を確かめるように、松浦も窓へと顔を向けると、窓枠に区切られた外の景色はひどく明るかった。そこに背を向けている妻の表情は、逆光になっていてよく見えない。

妻が、ゆっくりと顔を上げる。頬に風を感じた瞬間、視界の端でカーテンが大きくはためくのが見えた。

穂乃果が亡くなった事実を変えることはできないですし、誉田のやってきたことを受け入れることもできるはずはないのだと思います。

ただ松浦が松浦が至った「それでも穂乃果は、最後まで希望を持って戦っていたのだ。」という前に進めるような気持ちを妻も持っていてくれればと思います。

冒頭と終りで書かれた「カイン」の評論文

冒頭は藤谷誠が演じた「カイン」、終りは尾上和馬が演じた「カイン」の評論文でしょう。

公演初日が終えると書かれる檜山重行のいち早い評論はまっさらな作品としての評価として作り手から捉えられています。

誠の「カイン」前の練習では殻を破ろうと四苦八苦する尾上和馬が描かれていたので最後の「カイン」の評論を読むと尾上和馬に光を当たっていくような感覚になりました。

表現はこうやって苦しみぬいた末にさらなる高みを目指していくものだと感じた場面でもあります。

ますます誉田を正当化してしまいそうな気持ちになっているのは怖くもあるのですが、夢を追うものが叫ぶ魂の声が聞こえるような物語は最後まで面白かったです。

カインは言わなかったの感想まとめ

ダンサー、画家、男女の想い、才能、芸術、夢……。

それぞれの要素が好みの物語でした。しかも人がもがいていく末に謎が明らかになっていく流れが面白くて空き時間に必ず本を開いてしまうような魅力を感じました。

苦しみを知らない人間に苦しんでいる人を表現することはできないのでしょうか。

それをこれ以上ないくらい高い質で表そうとしたらそれこそ物語上の人間以上に自身を追い込むことが必要なのかもしれません。

正しいとは言えないのだと思います。

でもきれいごとだけではなくて、不適切でもそれくらいの苦しみの末にできた作品は美しいのだと思います。

書いている最中、苦しくて仕方がなかったという作家さんのコメントがついた作品に感動したことも多くあり、複雑ながら色々と思い浮かべながら『カインは言わなかった』の世界を楽しむことができました。

ABOUT ME
いちくらとけい
社会人の本好きです。現在、知的障害者の支援施設で働いています。 小説を読むことも書くことも大好きです。読書をもっと楽しむための雑記ブログを作りたいという気持ちで立ち上げました。

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