芥川賞から15年。危険で圧倒的な金原ひとみの長編小説。
金原ひとみさんは15年前に『蛇とピアス』で第130回芥川賞を受賞した作家さんです。
当時は綿矢りささん『蹴りたい背中』と最年少でのダブル受賞で話題になりました。
それから15年、発表された長編小説は「心の平穏」を求める難しさと切実さが描かれた長編小説。
救いを求めてもがく男女の物語を紹介します。
簡単なあらすじ・説明
望んで結婚したのに、どうしてこんなに苦しいのだろう――。
最も幸せな瞬間を、夫とは別の男と過ごしている翻訳者の由依。
恋人の夫の存在を意識しながら、彼女と会い続けているシェフの瑛人。
浮気で帰らない夫に、文句ばかりの母親に、反抗的な息子に、限界まで苛立っているパティシエの英美。
妻に強く惹かれながら、何をしたら彼女が幸せになるのかずっと分からない作家の桂……。
それぞれの視点から綴られる場面が交錯します。
「私はモラルから引き起こされる愛情なんて欲しくない」「男はじたばた浮気するけど、女は息するように浮気するだろ」「誰かに猛烈に愛されたい。殺されるくらい愛されたい」
ままならない結婚生活に救いを求めてもがく男女を、圧倒的な熱量で描かれている物語です。
ここからネタバレ注意!
アタラクシアの感想(ネタバレ)
様々な人間模様
不倫する側、不倫される側と多視点で物語は進んでいきます。
登場人物はそれぞれ出自も価値観も考え方も違う人ばかり。分かり合える人達もいれば分かり合えない人たちもいます。
そして分かり合えないからこそ、成り立つ関係もあります。
特に由衣と桂、由衣と瑛人という関係は同じ由衣との関係ですが見せる顔もうまくいっている部分も違って興味深く会話を読んでいました。
由衣と瑛人は「わかる」という共感が主だっていますが桂とは会話は互いの主張みたいな想いがぶつかり合っているうちに会話が落ち着いている部分があります。
例えば共感の強い関係だったら、落ち込んだ時に二人して落ち込んでしまうかもしれません。
でも、共感の薄い関係だったら落ち込みも「なんだそれ」くらいで飛ばせてしまうようなこともあるかもしれない。
だからこそ人付き合いは面白く感じます。特に長く付き合っていくような関係ならなおさら。
この小説では様々な人間模様が描かれていて一人の人物でも出てくる顔も違うし、構築される人間関係も違います。
だからといって薄っぺらな表情がひょいひょい出てくるわけではなくて、どちらかといえば重い自身の救いを求めるようにしてもがく姿が出ているのでそれぞれの章で物語に引きずり込まれるような想いでした。
一人の人間の中の様々な顔
冒頭の由衣の章で瑛人と会って始め緊張しながらも幸せを感じる由衣の気持ちから真奈美や桂の章を通じて由衣の色々な顔を見ることができます。
全部が由衣なのですが人との関係は相手の掛け合わせでまるで違う関係が浮かび上がるのが面白かったです。
一人の人間の中の様々な顔という面では荒木の姿が私にとっては驚きでした。
ものの五分で駅に着き、私こっちから行くからと駅の入り口を指さすと、じゃあそこまで送ると荒木はついてきた。
「じゃあ、ここで」
「うん。また、会社でな」
「うん」
「何かあったら連絡して」
「なんかさ」
「なにさ」
「笑っちゃうんだけど、寂しいもんだね」
笑いながら言うと、笑わないでよ泣いてよ、と荒木も笑った。
真奈美と接する荒木の姿を見ると優しくて穏やかな表情が見えます。
でも最後まで読むと荒木が他の女性の首を絞め殺したことが分かり、その荒木のツイッターのアカウント名が「コウボクノマック」ということが分かります。
どこかで聞いたことあるな、と思い出してみると「コウボクノマック」は由衣の妹、枝里に乱暴したユウトということが分かって闇の深さを感じました。
「何なんだよメンヘラって。首絞めてだの殺してだの、そのくらいてめーで何とかしろよ」
「自殺するくらいなら俺が殺してやるって彼が言った」
「お前も彼氏もゴミだな。死にたい殺すって言いふらすばっかりで死なないし殺さない。お前らみたいな奴らが量産されて薄汚いネズミみたいに走り廻って、目障りなんだよ」
「お前みたいな暴力もセックスもぬるい奴に言われる筋合いねえよ!」
ファッション変態のクソが! 手を洗ってるユウトの背中に大声を浴びせると私はドアのフックに掛けていたバッグを取りトイレの鍵を開けた。
とても真奈美との会話と枝里との会話が同じ荒木(ユウト)との会話とは思えません。
多視点での物語が連なっているからこそ見えるそれぞれの表情は深くて重くて、読んでていて面白い部分でした。
最後に明かされる「彼女の愛の終わりの始まり」
最後に由衣と桂の過去が描かれます。
そこには由衣と桂が子どもができたことによって感動している姿でした。
桂から見れば由衣と桂にも愛があった期間がありました。
そこから二人の距離が離れて行き、それでも桂は「絶対に別れない」ことを決める姿。
そして由衣が恐らく誰かを愛し始めている様子を桂が感じ取り「彼女の愛の終わりの始まり」の小説を描き始めるラストを読み終えるとすぐに冒頭の場面を読み返します。
最後まで読んで、始めからの様々な場面が一本筋が通り、面白さが込み上げてくるような物語の余韻をしみじみ感じました。
アタラクシアの感想・まとめ
普段、日本に暮らしているからだと思いますが、人付き合いはわりと摩擦とかぶつかり合いを避けようとする中で暮らしていると思います。
私自身も人とぶつかった時にまず自分の中で改善できるところを探してきました。
でも折り合わない考えをぶつけ合う会話が多くて、実際に親子とか男女とか表に感情をぶつけていく様が、ここに自分がいたらどうなるんだろうと怖くなりながら想像しました。
私は人付き合いの中でもっと気持ちを表さないと伝わないと反省することも多いです。だからこの小説の中の登場人物の姿はすごく正直に見えて会話自体を怖さも含めて楽しんで読めました。
うまくいかない結婚生活、不倫、暴力の気配などいろんな人たちがいて、自分を成り立たせながらそれぞれに心の平穏を求めて苦しんでいます。
感情が複雑で理解できるものできないもの、ただ痛いもの苦しいもの、たくさんあって読んでいるとどんどん本の中に引きずり込まれるような気持ちでした。
一度読み終わってまたぱらぱら再読してそれぞれの気持ちの裏表を感じました。
理解できない他者同士の生きる姿が描かれていてどっぷり楽しむことができました。
それにしてもこの作品でてくる男の変態的さが際立っていて、私が男だからというのもあると思いますが「男って……」と苦笑いでした。
綿矢りささんの『生のみ生のままで』から金原ひとみさんのこの『アタラクシア』と続けて読んだのだけどどちらもどっぷり読書の楽しみを味あわせてもらえました。
芥川賞受賞から15年。
15年前も『蹴りたい背中』、『蛇にピアス』を読んで今と同じように凄さを感じて読書を楽しんでた。
感慨深い。これからもお2人の作品読むの楽しみです。