創作ショートショートです。
5分ほどで読める分量です。息抜き程度、軽い気持ちで楽しんでもらえたら嬉しいです。
『あーあ』
美久は口を結んでいる。雨のしずくが頬をつたっていた。
お別れのほんの少し手前、美久は頬の雨を振り落とすように顔を振ってから言った。
「公園寄っていい?」
僕は「雨、強くなってきてるよ」と言ってみた。でも美久はきっと何が何でも公園に入るだろうことは分かっていた。最後のデートだったから。
公園の中に入って背もたれのないベンチの前まで来る。雨はますます強くなって冷たい雨が体中を冷やした。僕の顔を見て美久は言う。
「疲れたでしょ。座りなよ」
僕は言われるままに座る。
二人共話さなかった。しばらく閉じ込められるような雨の檻の中で囚われたように動けなかった。
「あーあ」
美久は言った。もう一つ「よし」とも言った。
「ここでお別れにしょう。私は家の方向へ帰る。恵太は少し戻るような感じになっちゃうけど自分の家の方向へ」
「家まで送るよ」
「いい。送らなくていい。っていうか送って欲しくない」
美久はきっぱりと言う。怒っていた。しかも激しく。
「なんか悪いこと言ったかな。また無神経なこと言ったかも。だったら教えて。ちゃんと分かりたいから。最後だしさ」
美久は僕が話している最中、無表情だった。時々顔を打つ雨を拭うだけだ。
「どうしたの?」
僕が沈黙に耐えられずに言うと美久はすっと立ち上がった。そして僕を向いて、遠くの人に挨拶するように手を掲げた。手を大きく開いていた。
「何?」と言葉に出した瞬間に美久はその手をフルスイングした。咄嗟にのけぞったのだが鋭い風が目元にぶつかった。
「危ない」と僕は言ったがもう一度美久はその手をフルスイングした。僕はもう一度、のけ反る。のけ反らなければ当たっていたのではないかという位置を手の平が通過していく。
ベンチから立ち上がる。そして「危ないってば」と言う。でも美久はまた構える。そしてフルスイングする。僕の左腕に手がバチンと当たる。
「痛いよ」
美久に気にした様子はない。「顔」と言ってまた手を構えた。
「何? 何なの?」
僕はわけが分からず混乱している。でも美久は容赦なく繰り返し腕を振る。顔を逸らしたが鼻に痺れるような痛みが走った。
何が起きたのか分からない。でも美久がさらに手を構える姿を見た時、鼻から真っ直ぐ何かが流れ落ちた。手を拭うと赤い。右の鼻の穴から鼻血が出ていた。すぐに鼻血は雨に混ざって薄く広がった。
「まじかよ」
その瞬間に左頬に衝撃が走って僕は公園に倒れていた。細い腕からは想像できなほどの衝撃だった。
倒れて草の匂いと血の匂いと雨の匂いが鼻についた瞬間に僕は立ち上がって動いていた。構えている美久の腕を掴んだ。
「一体何なの?」
僕は叫んでいた。「恨みとか嫌なことがあるなら口で言いなよ」
美久は僕の言葉が聞こえていないのか掴まれていない方の拳を握り、腰を捻り振り被っていた。
「え」と思った瞬間、美久の力の入った拳がみぞうちに埋まる。僕の内臓はパニックになってむせ返った。
「いい加減にしろ」
僕は美久の両手首を掴んだ。彼女は真っ直ぐ僕を見ていた。
「……倒す」
美久は息を切らしながら一言言った。僕は美久以上に呼吸が乱れている。
「……倒す? 何を?」
「恵太のその着ぐるみみたいな上っ面を」
「意味がわからない」
美久は今度、右足で僕の左の脛を思い切り蹴りあげた。僕は言葉にならない声を上げて手を離して蹲った。蹲る僕を見下ろして美久は言う。
「ちゃんと気持ちを言ってよ、叫んでよ、伝えてよ。私の気持ちが何も変わらないんだとしても!」
美久を見上げて僕はただ固まっていた。
「だからその分厚い歪んだまるを私が壊してあげるよ」
美久は僕のどこかを踏みつけるがごとく膝を真上に上げた。
僕は力一杯叫んだ。
「いつも勝手だよ美久は!」雨を飲み込みながら言葉を吐き出す。「僕は……美久と別れたくない。ずっと一緒にいたかったんだ。だけど振られた。別れたいって。きっぱり言う人に何かいう言葉なんてないよ」
「勝手なのはどっちだ」
美久は僕に負けないくらいの大声で言う。「すっきりしなくてもいい。いつもいつもいい人ぶってて何なの。優しさは嬉しいし考えもよく理解してくれて嬉しいけど、最後までただうまいこと言おう言おうって浅はかさ。何年も真剣に付き合ってきたって言うのに」
僕は茫然とした。美久の気持ちと完全にすれ違っていたことの驚きだった。
美久は一息に言い終わると最後に「あーあ」と付け加えた。
「もういいや。ばいばい。がんばって」
僕に背中を向けて散歩道を歩いていく。僕は唇を思い切り噛みしめた。
僕の気持ちって何だ。
いくつもポートレートのように気持ちが浮かぶ。でも全部違う。
ただこれで終わりにしたくはなかった。小さくなる美久の背中に叫ぶ。
「また会おうね」
美久の背中が止まった。そして美久も叫ぶ。「会わない。会っても気まずいし何も言えない」
僕は叫び返す。
「僕が、気まずくないくらい頑張って変わってから行くから。何も言ってくれなくてもいい。でもいつか必ず行くから」
美久の背中は止まったままだ。僕は繰り返す。「美久に負けないから」
雨が強くなって叫んでいたら気管に雨粒が入ってむせた。「ごっほっほ」
自分の体が小さく丸まってしまうのでは思うくらいむせた。こころもとない自分の体を涙さえも実感させてくれない容赦ない雨が打ち続ける。祈るように美久を見上げた。
美久は振り返っていた。口元は少し緩んでいた。濡れた髪の毛をかき上げた。
「馬鹿だね」
「ごっほほ」
ゴリラとの会話のようになってしまった僕を見捨てて美久はまた背中を向けて歩きだした。強く迷いのない足取りだった。少しずつ美久の背中は小さくなっていく。
美久が公園の端まで行ってしまった時、僕は空を仰いだ。星がほとんど見えない濁った空だった。誰もいない様な静けさの中で堪らなく悲しい気持ちに押しつぶされそうだった。
美久の身体がついに見えなくなった時、その悲しい気持ちを吐きだすように言葉が出てきた。
「あーあ」
声が重なったような気がした。あーあの気持ちくらい一緒であって欲しいという願望かもしれない。
暗闇が濃くなっていく。暗闇の中を雨が一瞬一瞬を終わりにしていく。誰もこの世界にいないみたいだ。でも僕はあーあの声に押されるように強く一歩を踏み出した。(了)
あとがき
何書いているんだと言われてもおかしくないような文章ですが色んな文章を書いてみたいという始まりから書きました。
これくらい気持ちのすれ違いをばちばちにぶつけ合うことはきっともうできないだろうから書きながら懐かしくてもどかしくて面白かったです。
プロフィールにも書きましたがショートショートはこれからも何にも恐れず冒険して書いていこうと思います。止まるなら書けの精神です。