第159回直木賞候補作。
受賞作は島本理生さんの『ファーストラヴ』でした。こちらも魅力的な作品です。
ただ、この『じっと手を見る』も負けず劣らず素晴らしい作品です。
直木賞の選考でも最初の投票では最も票を集めました。最後の決戦投票で評価がひっくり返るも選考委員の北方謙三さんの振り返りでは「ぎりぎりのきわどい勝負でした」と言葉あるほどの接戦だったそうです。
「大切な人を、帰るべき場所を、私たちはいつも見失う――。読むほどに打ちのめされる! 忘れられない恋愛小説」
帯に書かれた文面です。
誰かがいなくなったから寂しいとか、近くにいるから幸せとか、人の気持ちはそう単純でありません。
私は窪美澄さんの作品を読むと言葉では説明できないもどかしい気持ちの空気感や関係性を感じます。
文字通り「打ちのめされる」こともしばしば。
だからいつも真剣勝負で作品を読むし、その度に味わうことのできる気持ちに酔いしれます。
この『じっと手を見る』も自分の中の大切にしているものを見失っては求めるような強い気持ちを孕んだ小説です。
確かに「忘れられない」恋愛小説です。
あらすじ
富士山を望む街で介護士として働く日奈と海斗を中心とした話です。
老人の世話をし、ショッピングモールだけが息抜きという生活を送っている日奈の気持ちは東京に住む宮澤との出会いをきっかけに大きく動いていきます。
生まれ育った町以外に想いを馳せる日奈がいる一方で海斗は日奈への想いを断ち切れぬまま、職場の後輩・畑中との関係を深めるなど生まれ育った町に縛りつられるように生きていきます。
日奈、海斗を中心に宮澤、畑中を含めた4人の視点で物語は紡がれていきます。
地方都市の閉塞感がある中で登場人物それぞれの生き方が描かれた物語です。
ここからネタバレ注意
じっと手を見るの感想(ネタバレ)
介護職について
この話は地方都市の介護士の話です。そこには閉塞感があります。
エゴがあって、迷いがあって、それでも少しずつ前に進もうしています。
前に進むとか成長するということはけして綺麗なことばかりではありません。
進んだ先が疲れ果てていても枯れてしまっていても暖かさのかけらが見えるような、恋愛を含めた生き方の話です。
介護職は利用者の生活支援をしていく中でその利用者の死を含めた人生を感じる場面が多い仕事です。
その繰り返しの日々とも言えるでしょう。
地方都市の介護職の仕事は絶対的に必要な仕事です。
また人の人生の寄り添っていく仕事内容もやりがいのあるものです。
それは間違いありません。
ただ、現場の人間は自分の人生を見つめた時にその地域と職業的な閉塞感に悩んでしまったり暗くなってしまうことは大いにあると思います。
また収入について勿論職場によっても違うとは思いますが、収入に満足できるという介護士も少ないと思います。
小説内でもでてきますが、社会福祉士になろうと思った時に自身が福祉系の大学等出ていなければ通信など大学へ通い受験資格を得てから受験することが必要になります。
勿論資格を取ることで取った後の出世に関わるのかもしれませんがそれは約束されたものではなくて資格手当が少しつく程度だと思います。
通信に行く費用を負担してくれる企業は私の知る限りですがそうなく、取得にかかる費用と時間を考えて、取得後のメリットを天秤にかけると前向きになれない現場の人間も多くいます。
私は海斗と畑中真弓のやりとりが生々しくよく分かりました。
「あたし、もう疲れちゃった。介護士やめたい。……結婚して楽したい」
「介護士をやめる?」
「介護士なんて、どれだけ働いても給料なんかたかが知れてる。海斗がなったケアマネだってたいして給料が上がるわけじゃない。それから大学行って社会福祉士になって、それでいくつになる? 給料がいくらになる? あたし、それなら人を使うほうにまわってみたい。大学にも行かせてくれるってその人が。あたしは楽なほうでいきたい」
簡単に笑い飛ばすことなどできません。だからこの物語の答えは見えなくて重い。
でも真剣に生きている人の物語から目を離すことはできません。
日奈と海斗を中心とした登場人物
日奈は宮澤と出会い、生まれ育った町を出て追いかけるなど人生を大きく動かします。
海斗は街に残りながら、通学し資格をとってキャリアアップをしていくことを道しるべに人生を進めていきます。
2人の人生は重ならず、2人それぞれ迷い、求めて、失って、また求めてという繰り返しです。
人生を年表化するなら効率はいいとは言えません。
特に最近、中学生からやりたいことを仕事にして進む人がよくクローズアップされていて、それに比べると社会人になってから自分の生き方に迷って、進んでは戻ってというような繰り返しは無駄なようにも思えます。
でも私はいくつになっても思い切り迷いながら人生を進めていく姿に生身の人間らしさを感じました。
自分が何を求めているのかはっきりわかることなんて死ぬまで分からないことだってあるんじゃないかと私は感じました。
だけど分からない中で必死で何かを求めようとする強い力が二人の物語に流れていて明るくなくても真剣に生きる二人に夢中でした。
宮澤にしても畑中にしても同様で何が自分の人生においていいのかを考え抜いてけしてきれいごとでは済まない選択をしていく姿は全員の価値観が違っても、全員の生き方に「そういう考えも分かる」と思わせるような説得力がありました。
ラストについて
けしてハッピーエンドといえるような確かな明るい雰囲気ではありませんが、日奈と海斗がそれぞれ過ごしてきた時間が少し重なってよかったです。
「そばにいてほしい」
自分の声が自分の声じゃないように聞こえた。海斗は何も言わなかった。もしかしたら聞こえなかったのかもしれない。けれど、言葉にできたのだから、私にとってはもう十分なのだった。
間の日奈の章である「暗れ惑う虹彩」では宮澤に「いつもでもいっしょにいてくれる?」とは言えませんでした。
生まれ育った町を出て「よく知らないこの町で、ずっと一人だった」と日奈は思います。
でもラストで日奈が一歩踏み出したような締めくくりでよかったです。
終わりに
登場人物それぞれの視点から連作短編の形式だからこそ、様々な立場の価値観に触れてどれに味方をするでもなく噛み締めるように物語にのめり込みました。
何でこんなに近くで起きている話として胸に入ってくるんだろう。
単に残酷とか暗いとかの話ではありません。
いつまでも胸に残る物語の一つとなりました。